人格の分離

土日にカフェで一人でいる人達をみていて、この人は普段はどのような性格なのだろうとたまに思う。

一人でいるときの自分と、誰かといるときの自分は性格が違うのではないか? この前、池袋の居酒屋で友人と話していた。

人は、コミュニティごとで、意識的に違う自分をつくりあげている。 正確には気づいたらつくってしまい、それが顕在化しているだけかもしれない。

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僕は、田舎から東京から上京する過程で、コミュニティを何個か橋渡りしてきた。

僕は、自分の主張が強い方ではないと思っているため、求められているような人格を形成してきた。 と、今振り返ると考えている。

そうなると、自分はテンションが高いやつだと思われるコミュニティもあれば、寡黙なテンションが低いやつだと思われるコミュニティもある。と、思っている。

20歳になったとき、僕は複数人格が形成されているような感覚が顕在化してきた。 僕は主張はしないが、譲れないスコープの小さい核となるものはある性格だった。そのため、その核なる性格がブレ始めているのではないかと感じ、戸惑っていた。

八方美人のようで、自分に軸がないような感覚。 僕が僕に許しがたいような感じだ。

最近はSNSにより、人格を作ることが多様的になったと考えている。 僕はSNSによって、人格が更に分離しているなと思っている。 インスタの人格と、ツイッターの人格はちがうし、このブログの人格もまた違う。

自分が自分を客観的に見ているような状態になり、半ば他人のような感覚になってきている。

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ここまでは僕の体験談だけど、この体験に近いものをみんな感じているのではないかと思ってきた。

高校や大学に入学するときに、〇〇デビューと揶揄されるのがこの類であると思う。 〇〇デビュー と揶揄されるのは、人は性格が変わるというのをどこか恥ずかしいものだと、感じているからなのだと思う。

「事実、高校のときは根暗で黒歴史だった」

のような話を、自分が変わったことの恥ずかしさに見立て、ネタとして消化する会話に何回か出会ったきた。

また、親に見せる姿と、友達といるときの姿もまた違い、 親に友達と接するときの自分をみれるのも、恥ずかしさを感じる一面であると思う。

この辺を考えていると、人格が分離するというのは、案外普通のことなどだと最近納得してきた。

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人格が分離し、その分離について考察が深まってくると、 居心地の良さとは? という問に対して、僕の中で答えの仮説ができ始めた。

それは、自分の何個かの人格が、適度な割合で保たれている状態であると思う。

具体的に説明すると、 自分の中の人格が A, B, C とあったときに、日々の中で現れる割合が、 Aが7割、Bが2割、Cが1割 のように適度に分配されていることだと思う。

心理上京でいると、Aの人格が一番ここち良いのだけど、たまにBとCも出してみたくなるというような感覚だ。

この前提に立つと、誰と付き合うかも人格基準に考えることができる。

誰かが好きという感覚より、誰かといるときの自分の人格が好きだから、その誰かと一緒にいたい。みたいな感覚で生きることになってくると思う。

だから、昔の僕のように、どこか生きづらさを感じている人がいるならば、自分の好きな人格と出会わせてくれる人といる、という観点で每日をすごせばよいのではないかと思う。

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